2023年1月8日に開催したオープニングイベント「夢Q童話ワークショップ」で訪れた場所をご紹介します。
玉屋跡地(GATE’s)
夢野久作は、福岡一のモダンボーイだったそうです。
ベルベットの洋服を着て、首には粋なマフラー。文化人が集まる喫茶店のブラジレイロでゴールデンバットをふかしていたそうです。朝食はトーストに紅茶。外出の際にはデパートやカフェに立ち寄っていたようです。
玉屋は1925年9月29日福岡市東中洲町に「株式会社玉谷呉服店」を設立。福岡市初の百貨店として開業しました。
(写真は2000年頃に撮影された閉店後の玉屋)

吉塚うなぎ
「ドグラ・マグラ」の中に”どうだい一ツ今から吉塚へ鰻を喰いに行かないか”というセリフが出てきます。
また、それ以外にも「超人髭野博士」の中にもうなぎをご馳走され喜ぶ場面があったり、「無系統虎列剌」 の中では、”犯人の足跡の鑑定だけさせられて追払われたんじゃ、鰻丼の臭いだけを嗅がされたようなもんだ。”と語る場面も出てきます。
吉塚うなぎは創業明治6年、うなぎ専門店として吉塚に開業し、中洲へ移転し現在まで愛されています。

川端飢人地蔵尊
「押絵の奇蹟」の主人公トシ子の生家があったとされています。水車橋の袂、飢人地蔵の横。十七銀行のテニスコート横の地蔵尊と並んでいると書かれています。
また、童話作品の中にも「石の地蔵様」というどんな願い夢でも叶えてくれる地蔵の物語があります。
飢人地蔵は1732年の享保の大飢饉の犠牲者を供養するために建てられたものです。博多の総人口約19,500人の1/3にあたる約6,000人が亡くなったと伝わっています。

櫛田神社
「押絵の奇蹟」のアイテム 押絵を奉納したのが櫛田神社と書かれています。
“その押絵を立派なビイドロ張りの額縁に納めて、その上から今一つ金網で包んだ丈夫なものにして、櫛田神社の絵馬堂に上げられました。”
また、「近世快人伝」の奈良原到の項では櫛田神社で宮司の演説を聞いている様子も描かれています。
櫛田神社は757年天平宝字元年の創建と伝わっています。博多の総鎮守として崇敬され、祇園山笠行事は博多の夏の風物詩です。

櫛田の銀杏(ぎなん)
夢野久作が自費出版した童話「白髪小僧」は、大人に読んでもらいたいと書かれた作品です。物語の中の物語、自分は何者なのかを探していくなど、後年の探偵小説、「ドグラ・マグラ」などにも通じるテーマが描かれています。その白髪小僧の冒頭は<銀杏の木>という章から始まり、作中何度も繰り返し銀杏の樹、銀杏の葉が登場します。
“思わず手に持っていた書物をパタリと地上に取り落とすと、間もなく颯と吹いてきた秋風に、綴目がバラバラと千切れて、そのまま何千何万とも知れぬ銀杏の葉になって、そこら中一杯に散り拡がった。見るとその葉の一枚毎に一文字宛、はっきりと文字が現れている様子である。”
“あの銀杏の葉に書いてある字を集めると、屹度今までのお話しの続がわかるのに違いないと思った。”
櫛田の銀杏は櫛田神社の神木として古くから広く崇敬されており、博多祝い唄にも「さても見事な櫛田の銀杏、枝も栄ゆりゃ葉も繁る」と謡い囃されています。
(写真提供:福岡市)

那珂川
「父杉山茂丸を語る」の中で、父親の背中に乗って那珂川を進む場面が描かれています。
“父は六歳になった筆者を背中に乗せて水泳を試み、那珂川の洲口を泳ぎ渡って向うの石の突堤に取着き、直ぐに引返して又モトの砂浜に上った。滅多に父の背中に負ぶさった事なぞない私はタマラなく嬉しかった。
その父の背中は真白くてヌルヌルと脂切っていた。その左の肩に一ツと、右の背筋の横へ二ツ並んで、小さな無果花色の疣が在った。左の肩へ離れて一ツ在るのが一番大きかったが、その一つ一つに一本宛、長い毛がチリチリと曲って生えているのが大変に珍らしかったので、陸に上ってから繰返し繰返し引っぱった。
「痛いぞ痛いぞ。ウフフフ……」と父が笑った。”
“父は九歳の時に遠賀郡の芦屋で、お祖父様の夜網打ちの艫櫓を押したというから、相当水泳が上手であったらしい。那珂川の洲口といえば、今でも海水、河水の交会する、三角波の重畳した難コースで、岸の上から見てもゾッとするのに、負ぶさってる私は怖くも何とも感じなかった。些くとも父の肩から上と私の背中だけは水面上に出ていたと思う。”
